森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

孤独は山になく、街にある。 **ブックマーク・ツイートから** 山猫ノート22

 
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孤獨は山になく、街にある。

三木清の言葉です。

その言葉の後は、こう続きます。

一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。孤獨は「間」にあるものとして空間の如きものである。

(三木清『人生論ノート』より)

 

ブログ巡りの面白さがその記事自体を楽しむことにあるのはもちろんですが、ブックマークを書きつつ考えを整理したり、記事に刺激を受けて、それまで自分では考えてもいなかった、あるいはとうに忘れてしまっていた思いを生じさせることにある、とわたしは思っています。

これは、何もブログに限ったことではなく、小説を読んだり映画を観たり音楽を聴いたりしたときにも当てはまることだとは思います。

ですが、ブログの場合はブックマークという手段を使うことによって、読者が書いた言葉を直接に記事の筆者に届けることができます。

筆者から返事が返ってくることがあるにしろないにしろ、何がしかのやり取りやコミュニケーションがとれるという点は他にはない特長だと思います。

書いたブックマークを後からでもすぐ分かるようにしたいときはtwitterにも残すようにしています。

ツイートすることでわたし自身の内側にあるものを顕かにすることができます。

 

くにん(id:kuninn)さんの記事(【詩】 孤独)に書いたブックマークです。

孤独を感じのるはひとりじゃないからですね。本当にひとりぼっちなら孤独を感じることはない。だから、孤独を感じたら手を伸ばすんですね。誰かの手と繋がるまで手を伸ばしていくんですね。

この記事を読んでわたしは「孤独」について考える時間を持つことができました。

「孤独」という言葉に惹かれたのは、きっとわたしの心がその感情を身近に感じていたせいでしょう。

でも、わたしはどちらかと言うと、ひとりでいることをむしろ好む方の人間だと自分では思っていました。

昼休み、コンビニで買ってきたおにぎりを職場の机でひとりで食べることを寂しいと感じたことはありません。

研修会の会場で、一番前列の座席にひとりで座って話を聞くことを苦痛に感じたこともありません。

それを「孤独」だとは少しも思っていませんでした。

けれど、その言葉に引っかかったのは、実はひとりでいることをとても気にしていたから、ということなのでしょう。

 

孤独を感じるのはひとりじゃないから。

三木清の言葉で言えば「街」にいるからです。

そして、ひとりぼっちじゃなかったときの自分を覚えているからでしょう。

手を繋いで温かな気持ちを味わった記憶があるからこそ、誰とも手を繋いでいない自分を孤独だと思う。

もしくは、繋ごうとして手を伸ばしても、そこにいる誰かの手はすでに他の誰かの手と繋がれてしまっている。

そんなときに孤独を感じるのでしょう。

そんな思いを味わいたくないから、わたしはひとりでいることを平気だと思い込もうとしているのだろうか。

そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

わたしは自分を客観的に見ることができずにいます。

けれど、人はしょせんひとり。

どれだけ思いを共感できる人がいたとしても、最後はひとり。

最後の最後は自分しかいない。

何か大きな決断をするときも、命を終えるときも。

ですから、

ひとりでいることが寂しいと言うのではなくて、誰かと繋がることが一瞬でもできたのであれば、それこそが素晴らしい、と純粋に喜べばいいのかもしれない。

そうも思っています。

 

三木清は「孤独」の章の終わりにこう書いています。

孤獨は最も深い愛に根差してゐる。そこに孤獨の實在性がある。

 

孤独は山になく、街にある。

もう一度この言葉を噛み締めます。

孤独は森になく、街にある。

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとってしまいました。 

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よければtwitterものぞいてみてくださいね。山猫 (@keystoneforest) | Twitter
 

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イラスト/バリピル宇宙さん (id:uchu5213)