森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

「小石のように」 これから生まれてくる君への手紙 (創作短編小説)

 

 

 この冬、君の父はしつこい風邪に悩まされた。

 年が明けてから十日ほど喉の痛みが続き、体の節々もだるくて仕方なかった。ようやくそれが治りかけると今度は熱がひどくなった。咳が止まらず、深夜に咳き込んでは目が覚めてしまうことがしばしばあった。初めて風邪で医者にかかった。三十代の終わりにさしかかり、君の父の体力も随分衰えてきたということだろうか。

 君の母の用心は父よりもっと徹底していただろう。何しろ君が母のお腹に宿ったことが判った日から、人ごみに外出することさえ控えたほどだったから。インフルエンザが猛威をふるったこの冬、君の母はついに一度も風邪をひかなかった。

 厳しい寒さがようやく和らいできた。

 やがて君が住むことになる我が家の玄関には、プランターをいくつか並べている。

 数日前、一番日当たりのいい所に植えている苗に花がついた。もうすぐ春が来る。初夏に産声をあげる君を鮮やかな花で迎えようと君の父と母は考えている。

 

 今、君の母はベッドに横になり、近頃日増しに大きくなってきたお腹を包み込むようにして、優しく手をあてている。君は宵っ張りの性質らしく、父と母がそろそろ寝ようとする頃になるといつも母のお腹を内側からノックする。

 君の母がくすくすと小さな笑い声をたてる。

 君と母とはお腹の内と外とでノックを交し合っている。何枚も重ね着したせいでよけいに大きくせり出して見えるお腹の頂上あたりを母が指先でぎゅっと押すと、しばらくしてボコンと君が蹴り返してくる。さっきは右、今度は左。毎晩のように君たち二人はそれを繰り返して遊んでいる。

 幼い頃に母が何度も読んだという絵本を取り出してきて、君に読んであげていることもある。母には産着にくるまれた君がもう見えているようだ。

 君はじっと母の瞳を見つめ、心地よいその声に耳を傾けている。

 野ねずみの「ぐり」と「ぐら」のお話だ。二匹がつくった巨大なカステラのなんて美味しそうだったこと。憶えているかい?

 父も一緒に手をあててみる。掌の内に微かな衝撃が伝わってくる。今度は父が母のお腹をつっついてみる。

――返事はない。

 もう一度強く押さえる。そして君からの返事を待つ。

 そのうちにお腹にあてた掌が母の体温でじんわりと温かくなってくる。

「今のはお父さんだよ。返事してごらん」

 君の母が両手をメガホンのようにして君に語りかけてみる。

「嫌われちゃったかな、お父さん」

「おーい、お父さんだよ。返事してくれよ」

 父も母と同じ仕草を真似て君に呼びかけてみる。

――やはり反応はなかった。

 君はもう眠ってしまったのだろうか。

 

 最近、父は風呂の湯に浸かる時、羊水の感触を思い描いている。

 温かくてふるふる揺れる海の中を君は漂っている。

 母の子宮を透して差しこんでくるほのかな明かりを、まだ開かれたことのない瞼の向こうに君は感じている。羊水にふわりと身体を浮かばせて、君はうとうととまどろみ続ける。

 時折いろんな物音が聞こえてくる。柔らかな母の声も聞こえる。君はそれを聞くと優しい感覚に包まれて身体が揺れてくる。手や足をぎゅっと伸ばしてみたくなる。子宮の壁にそれがあたる。もう少し伸ばしてみる。そうすれば、まだ君が知らない外側の世界からきっと温かい返事が返ってくる。

「ほら、動いてる動いてる。見てごらん、お腹のここんところが動いてる。分かるでしょう」
 母がうれしそうに父に報告する。はちきれそうなパジャマのお腹に二、三度波がたつ。

 君ははっきりと自分の存在を主張している。今動いたのは君の手か、僕は大丈夫だよと手を振ってくれたのか。それともお母さんの方がいいよと、父の方を蹴っ飛ばしたのか。

 

 君はどんな夢を見ているんだい?

 

 父は子供があまり好きな方じゃなかった。どちらかと言うと嫌いだった。

 電車の座席に靴をはいたまま立つ。別の車両にいる友達と大声でしゃべる。口汚い言葉で叫ぶ。他人に身体がぶつかっても平気で走り回る。周囲の大人が眉をひそめているのに少しも気づかない。

 落ち着きがなくて、周囲に遠慮なんか一切しなくて、好き放題に騒ぎまわる。平気で人を傷つける言葉を口にする。口答えをする。理屈をこねる。おまけに暴れん坊で、残酷で、自分勝手で……。

 それが父の知っている子供たちだった。

 それなのに父は教師という職業に就いた。子供嫌いの父がこの職業を選んだのは、子供たちから目を逸らさずに、正面から向き合うことこそ父にとって大切なことだと思ったからかも知れない。

 本当は父は子供たちと接するのが面倒で、嫌われることを怖がっていた。

 子供たちは繊細で傷つきやすい。父は君たち子供の一面だけを見て、全てを知ってしまったような気になっていた。

 父は人と触れ合うこと自体を避けていた。そのくせ人に嫌われたくない父は、本音をオブラートで包み隠して友情や愛情らしきものを演じていた。

 優しい人だと映ったかも知れない。でも、子供たちはそれをすぐに見破った。

 

 父の父親、君のおじいちゃんにあたる人の話をしよう。

 

 君のおじいちゃんはとても物静かで優しい人だった。そして、人一倍仕事熱心な人だった。家族のために一心に働いていた。家族を第一に考える人だった。そのために彼は多くのことを犠牲にした。釣りや盆栽いじり、詩吟などいくつか自分の愉しみを持っていたが、それらに費やす時間がそうだった。

 家族と一緒に遊びに出かけることすら充分にできなかった。

 仕事を最優先させた結果がそうなったのじゃない。一生懸命働くことが美しく、そうしなければ生きてはいけない時代だった。働き者の主を持った家族の一員として、一緒にキャッチボールや旅行ができないことは少しも不満ではなかった。どこの家庭でもそうだった。

 君の父はそんな少年時代を過ごした。

 でも君のおじいちゃんの心の底には、到底割り切れない想いがあったのに違いない。一番大切に想っている家族と共に過ごす時間がとれないことは、きっと彼の胸をしめつけるほど辛くさせたことだろうと思う。

 でも少しもそれを気づかせずに、いつも優しい笑顔で家族を見守っていてくれた。

 父は君のおじいちゃんから強く叱られたことはほとんどなかった。

 父がとびきりの優等生だったという訳ではない。ケンカしたり、嘘をついたり、いろんな悪戯もした。嘘をついたのは近所の家の窓ガラスを割った時だ。最後まで父は、ボクがやったんじゃない、と嘘をつき通した。

 父の両親は父の言葉を信じてくれた。その時の嘘がつけた心の傷は今になっても時折しくしくと痛みだす。

 何が理由だったろうか、一度だけきつく説教されたことがあった。

 素直に謝ることができなかった父は家から放り出された。

 もう陽がとっぷりと暮れていた。刈り取りを終えた田圃が寒々と広がり、足元さえはっきりとは見えなくなっていた。田圃の続くずうっと先に民家の灯りが瞬いていた。

 その後ろにあるはずの山々は真っ黒な影になってそびえている。その暗闇が父に向かって手を伸ばしてくるような気がする。虫の音が話し声のように聞こえてくる。積まれた藁の裏側に何かが潜んでいるような気がする……。

 どこまで歩いて行っただろう、父はふいに肩をつかまれた。

 その後どうしたのか、もう記憶は定かではない。

「分かったなら、それでいい」

 君のおじいちゃんは多分こう言って、泣きじゃくる父を家に入れたのだと思う。

 それが君のおじいちゃんの口癖だった。感情表現が苦手な人だった。

 どんな人だったのか、本当のところ子供の頃の父にはよく分かっていなかったのだと思う。君のおじいちゃんが家族に注いだ愛はあまりにも遠まわしで、まだ未熟な君の父にははっきりと届かなかった。

 父は君のおじいちゃんとはついに一度も心の核にある想いを語り合うことはなかった。君のおじいちゃんは君の命が芽生える十年以上も前にこの世を去っている。

 君のおじいちゃんが払った一番大きな犠牲は、自身の命だった。

 過ぎ去ってしまった時間ほど取り返しのつかないものはない。父は君の母になる人と結婚して、初めて子供を愛しいと思えるようになった。

 

 君を連れて真っ先に行きたい場所は六甲の山だ。

 

 君がもうすぐ住むことになるこの家はその山裾からそう遠くはない。家のすぐ前には小さな川が流れていて、それを少し遡れば豊かな緑の木立の中に入っていける。

 父と母はそこに絶好の遊び場を見つけた。砂防ダムで堰き止められた流れを土砂が埋めて、小さな河原をつくっている。暖かい季節になれば、休日ごとに多くの登山者がその河原を横切って山頂をめざしていく。河原でバーベキューをするグループもある。

 父と母も何度かそこで休日を過ごした。川のせせらぎや虫たちの声に囲まれた中で炭火を起こす。そこで母が作ってくれたパエリアは涙がこぼれそうになるくらい美味かった。

 煙の匂いはなぜか懐かしい。胸一杯に吸い込むと体中が浄化されていくような感覚を味わえる。いつか君も一緒にそこでキャンプをしよう。

 暗くなると山からイノシシが下りてくる。白い斑点を背負ったウリ坊が短い尻尾を振りまわしながら、母イノシシに置いていかれないよう必死になってついていく。里に下りてくるイノシシはお腹をずいぶん空かせているから気をつけないと危険だ。灯りを消したテントの窓をそっと開いてそいつらを観察しよう。

 河原には大雨で流されてきた大きくて角が尖った石がいくつも転がっている。石の間を山肌から滲み出てきた水が流れだしている。そこが川の源だ。やがて流れはちょっとした淵をつくる。夏になればそこで水浴びもできるはずだ。裸足になった君がざぶざぶと流れに入っていく。弾けるような水音と、はしゃぎまわる君の歓声とが山間にこだまする。沢の水はひりひりするほど冷たくて、そして少しも濁りがない。君の笑顔を眺めながら父は大好きなビールを飲み、読書にふける。時間はのろのろと進み、夏の太陽はいつまでも沈まない。もうすぐそんな豊かな時を過ごせる日がやってくる。


 その河原で君に一番見せたいものは、砂防ダムの堤の上から南面に見渡せる神戸の海の青さだ。

 堰堤から見える海は川が深く刻んだ峡谷の向こうに細く切り取られて見える。

 眼下にはすぐ足元近くまで住宅が建ち並び、そのまま海岸にまで続いている。君の家はその景色の中に一つの点になって見える。

 細長い綿飴のような煙が製鉄所の煙突から吐き出されている。そのすぐ向こう側が海だ。天気がよければ対岸にある和泉の山々も見えるだろう。

 光溢れる海は君を未知の世界へ誘ってくれる。

 その海に向かって、河原で拾った小石を君は思いっきり投げる。

 小石はカーブしながら谷底に落ちていく。その小石はきっといつかあの海にまで転がっていくに違いない。

 山から川筋に沿って下って行くと、君なら一、二時間もあれば海にたどり着ける。

 緩やかに大きく波打つ海を、その波間から弾ける陽差しの美しさをもっと近くに寄って見てみたいと思うだろう。

 

 いつか君はこの川の流れの先を自分の目で確かめる冒険に出る。

 

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 河原を下り、車が通れる道に出るまでは山道が続く。降り積もった落ち葉が朽ちて柔らかな土にかえる。その上を踏みしめながら歩く。

 君は母と手をつないでゆっくりと下る。父はキャンプ道具を詰めこんだ荷物を背負って後に続く。君の家がある辺りまでは急な下り坂だ。下るにつれ海が迫ってくる。

 君は目に映った建物を指差して、その名前を尋ねる。山の斜面にそびえるように建つ家の石垣を見上げたり、教会から聞こえてくる聞き慣れない歌声に耳を澄ませたりしながら、君は母の手を引っ張って走り回る。

 足元をよく注意しないと転んでしまいそうだ。母は君の手を堅く握り締める。

 三人で歩く道で君はいろんな出会いをする。君の顔が笑みで弾けている。

 家までは三人で一緒に行こう。そこから海までは川沿いの一本道だ。父と母はそこで君を見送ることにする。

 

 その先を君は一人で歩いていく。

 しばらくは公園を左手に見ながら君は行く。天気はいい。クスノキの生い茂った葉が山から吹き降ろしてきた風に煽られてしなやかに波を打つ。

 その柔らかな葉っぱに触ってみたいと君は思うが、まだまだ君の背はそこまで届かない。

 公園には子供の姿より、犬を連れて散歩に来た大人たちの数の方がはるかに多い。滑り台やジャングルジムの間を縫うようにして犬たちが追いかけっこをしている。時折、バットがボールを叩く音が響いてくる。公園の南側のグランドでは大人たちが野球の試合をしているようだ。

 子供の数がずいぶん少ないことを君は特別不思議には思わないだろう。公園にこだまする子供たちの甲高い歓声が聞こえてこないことも当たり前のように感じているだろう。

 君にも何人かの友だちができたはずだが、友だちはみんな家の中にいるのか、それとも親と一緒に遊園地かショッピングセンターにでも行ってしまったのだろうか。

 君は外で遊ぶのが大好きだ。

 君は泥だらけになり膝小僧に擦り傷をつくって帰ってきて、その日の成果を身振り手振りで報告する。母はちょっと困ったようなうれしいような表情をしてそれを聞いている。

 思いっきり泥んこになっていい時だ。君は何をしたっていい。

 でも、本当はしてはいけないこともたくさんある。

 一人で歩くのはとても自由だし、何でもできる。でも、それが結構大変だということに君はもう気づいたかい?

「おーい、道草してると、暗くなっちゃうぞ」

 父は豆粒ほどに小さくなった君の後姿に呼びかける。

 声は届いたのか、届かなかったのか、君はしばらくしてまた歩き始める。こちらを振り返りはしない。

 

 その先の君の冒険譚をいつか聞かせてもらえるかい?

 

 父には君と話したいことが溢れるほどある。

 十歳の頃、父は考古学者になりたかった。家の近くの造成地で遺跡の発掘をした。ブルドーザーが踏み均した跡を掘り進めば、木箱の破片や紙切れなんかを発見できる。

 ツタンカーメン王やバビロンの空中庭園、マヤのピラミッドやインカ帝国に思いをはせて造成地に遺跡を作り上げたり、海底に沈んだアトランティスの地形を研究したりしていた。

 歴史の教師になったのは、きっとそのせいだろう。

 でも、中学、高校と進むうちに考古学者になる夢はいつのまにか消えてしまった。

 父の思いの中には幼い頃の憧れを否定する気持ちが芽生えていたようだ。

 考古学者になんてなれっこないよ、そう思いこむことで、父は結局少しの努力もせずに夢の一つを捨てた。

 十八歳の頃、父は小説家になりたいと思った。

 いくつか作品を書いて、雑誌に掲載されたこともあった。時間があると、レポート用紙にいろんな文字を書きなぐった。やがて文字同士が結びついて、物語に変わっていく。それは快感だった。

 でも、この時もやはり父は夢に挑戦しようとはしなかった。夢が大きく膨らむにつれ、自分の手が到底そこには届かないとも思い始めたのだ。

 それからも、いくつも夢を抱いた。でも、それらの大半は頭の中をぐるぐる巡るだけで、やがてくしゃくしゃに丸めて捨ててしまった。

 挫折する自分を見るのが嫌だったからだ。

 今、父はまた小説を書き始めている。遠回りをしてようやく、もう一度夢を追いかけることにした。それが手に届くものなのか、そうでないのか、そんなことはきっと人生には少しも関係はない。夢を追い続けるということこそがきっと大切なんだろうと思っている。

 君は山登りは好きかい?

 登山家の喜びは、歴史に残るような冒険を成し遂げることだろうか。

 山の澄んだ空気や鮮やかな緑は心の憂さを吹き飛ばしてくれるだろうし、頂上から眺める雄大な景色は疲れた身体を軽くしてくれるだろう。

 エベレストを極めなければ登山家じゃないなんて、そんな馬鹿なことはないだろう?

 父には作品を読んで感想を伝えてくれる得難い友人が何人かいる。そんな存在が次の作品を書く勇気を与えてくれる。いつの日か父にしか書くことができない作品を仕上げられればそれ以上のものはない、そう思っている。

 母もまた小説を書く。父が母と知り合ったのは、父がもう一度小説を書き始めようとしたことがきっかけだった。

 

 君はもう将来の夢を何か見つけただろうか。

 

 公園を少し下ったところで、川はもう一つの流れと合流する。川幅は広くなり、水嵩も増えてくる。水流は遅くなり、山から転がってきた小石も歩みを緩める。

 君は川床に作られた親水公園の掲示板に目を止める。それはこの川にも鮎が遡上してくると教えている。

 鮎は年魚とも呼ばれ、その一生はちょうど一年だ。

 秋の終わり頃、川の下流で鮎は孵化する。生まれてすぐ彼らは海に下り、冬の海で少年時代を過ごす。やがて春を迎える頃、若鮎に成長した彼らは再びこの川に戻ってくる。
 ――本当にこんな流れに戻ってくるのだろうか。

 君は少し疑問に思う。

 川は下るにつれて光を失い、整備された護岸に沿って流れるしかない。気のせいか少しずつ嫌な臭いも漂い始めてくる。

 夏、強い陽差しから力をもらった鮎たちはさらに上流を目指す。急流を求めて彼らは旅に出る。

 そして初秋、産卵を控えた鮎は再び川を下る。今、父と母の人生の季節はいつ頃だろう。

 

 君はもう車や人で溢れかえっている国道辺りまで行っただろうか。

 商店街には山のように品物が並べられ、流行りの音楽がエンドレスで流れている。路地裏にある飲食店からは刺激的な匂いが漂ってくる。君はそれらに目を奪われる。知らない世界への入り口がいたるところで扉を開いて待っている。

 君は一瞬、自分が何をしようとしていたのか分からなくなってしまうかも知れない。

 父は何度か海を見失った。

 ずいぶん歩いて、海はもうすぐそこにあるはずなのに、視界に捉えられるものは、高速道路の高架だったり、雑居ビルの派手な看板だったり、工場や倉庫だったりした。その向こう側にある海を思い描くことができなくなっていた。そして自分が歩いてきた道さえも信じられなくなっていた。

 顔を上げて、もっともっと先に視線を移せば、今日の悩み事に隠れて見えない地平線がきっと見えてくる。……父がそれに気づいたのはずっと後のことだったけれど。

 街は君の知らない、そして君のことを知らない人たちで満たされている。

 大変な問題を背負っているように深刻な表情を浮かべた人やヘッドフォンで何かとても素晴らしいらしい音楽に聞き入っている人、自転車やバイクを操って颯爽と風を切って走っていく人。みんなどこかへ向かっている。

 その先がどこなのか君には分からない。分からないことが多すぎて考えるのが嫌になるほどだ。不安の渦がぐるぐると君を巻きこんでいく。

 陽が少し傾いてきた。

 今何時だろう。君の腕には時計がない。

 時計や携帯電話やさっそうと歩けるシューズをみんなが持っているのに、どうして自分にはないんだろう。自分のポケットが空っぽだと思い込んでいる君はみんなと同じ物が欲しくなる。

 

 本当に君に必要なものは何だと思う?

 

 さあ、小石は海にたどり着いた。

 ダムの堰堤から見た憧れの海はもう君の目の高さと同じところに迫っている。

 君はうれしくて走りだす。潮の匂いだ。

 海に突き出た港の突堤がぐんぐん大きく見えてくる。

 君の目を引くのはキリンの形をしたクレーンの群だろう。その向こうには人工島にそびえる高層ビルの頭がのぞいている。

 ……肝心の海は、それらの間に挟まれて窮屈そうに納まっている。波は穏やかすぎて、飼いならされたように従順だ。

 君は岸壁に立ち、恐る恐る足元の海をのぞきこむ。

 海面にはいくつもゴミが漂い、打ち寄せる波は油の層で重く澱んでいる。山から見渡せたあの豊かな海はどこへ消えたのだろう。君の目に映るその澱みは一体何なのだろう。

 思い描いていた海とのあまりの違いに、君の表情は幻滅の色を隠せない。

 君は辺りを改めて見まわしてみる。

 製鉄所の煙突、廃油をばらまく船、コンテナ船の積荷を捌くクレーン……。

 機械化された港には人の気配がない。

 君は歩いてきた跡を振り返る。そこには六甲の緑が変わらず鮮やかに息づいている。

――海を汚してきたのは大人たちだ。君の父と母もこの海を汚した。

 生きていくためには、数多くのものを踏み台にする。踏み付けられ、ぺしゃんこにされたそれらは普段は目には見えない。それとも、本当は見えているのに、目をそらしているだけかも知れない。

 君が歩いてきた道は結構きれいだっただろう?

 河岸や道路は機能的に美しく整備されていたはずだ。ごみは街角から頻繁に回収され、どこか知らない場所で燃やされる。汚水は地下の下水道というもう一つの川を流れて海にたどり着く。

 世界中を美しくすることが可能だとして、その時、醜いと思われていたものはどこへ行くのだろう。

 大人たちが今まで目指してきたのは、結局自分だけを華やかに着飾ることだった。

 

 本当の美しさって何だろうね。

 

 君は山肌から転がりだした岩のかけらだった。

 長い旅を経て、かけらは小さく丸くなっていく。それが小石にとって経験の積み重ねの証しだ。

 君はどんな小石に育っただろう。

 でもね、小石の旅はそこで終わらない。まだまだ先は長い。何もあせらなくてもいい。ゆっくり歩こう。

 父もまだ人生の半ばをようやく越したばかりだ。これから先何が待っているか分からない。

 

 君の名前はもう決めてある。父と母とで何日も考えた。そこにある海から名前をもらった。

 気に入ってくれたかい?

 

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 これは父と母から贈るこれから生まれてくる君への手紙だ。

 いつの日か君がこの手紙を家の本棚から取り出して読んでくれることを、そして君がこの世に生を受けたことを喜びと感じてくれる日が来ることを父と母は願っている。

 君が生まれてくる世界は魅力に満ち溢れている。

 君の父も母も自信を持ってそう言える。

 

※本作は中島みゆきの同名の曲(アルバム『親愛なる者へ』収録)をオマージュしたものです。

 

 

 

 

 

 

  
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