森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

ヒーローになれる日。

 
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つい二、三週間ほど前まで蝉の声を聞いていたのに、今聞こえてくるのは秋の虫の声ばかり。

近くの雑木林から聞こえてくるその声は、蝉ほどじゃないけど、これが意外とうるさい。
でも、鳴くのはオスだけ。
蝉だけじゃなくて、鳴く虫は普通、オスだけが鳴くらしい。
鳴くといっても、声帯ではなく羽を震わせて音を出すだけみたいだけど。
スズムシとかコオロギとかカネタタキとかクツワムシとか。

メスは鳴かないから、この子たちには恋の駆け引きなんて多分ない。
メスはただ鳴き声だけでオスを選ぶ、ということなんだろうか。
あの大合唱の中から好みのオスの声を聞き分けるのはけっこう大変そうだけど。

 

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一方の鳴かない虫のオスたち、たとえばカブトムシなんかは腕力でアピールする、ような気がする。
これなら分かりやすい。

でも、ごめんなさい。カブトムシの生態について詳しく知らない。

 

平安時代、和歌のやり取りで想いを伝えあっていたと、国語の授業かなんかで習った。
男性から意中の女性に対して想いをこめた和歌を送るところから恋の駆け引きが始まったという。
でも、この場合、女性の家の前に立って大声で和歌を読み上げるのではなく文にして届けたらしいので、和歌の内容とか字の達筆さとかから相手を選んだのだろうか。

和歌を詠む歌声も相手を評価する対象になっていたとしたら、平安時代の歌人たちもシンガーソングライターだったかもしれない。

 

で、私がヒーローになれる(なれた)日のことだ。
仕事から帰宅したとき、もしくは休日にそれは起こる。

隣の部屋から悲鳴のような声が聞こえてくる。
そして、奥さんがこっちに逃げてくる。
分かった。ヤツが現れたに違いない。

ヤツとは、ゴキブリの場合が一番多いが、まれにカナブンやらゲジゲジやらムカデやら、ということもある。

こいつらを退治したとき、私はヒーローになれる。
私にとって、とてもとても貴重な活躍の場だ。

私が手にする武器は相手を凍殺するスプレー。

でも、ゴキブリやカナブンなら簡単だけど、ゲジゲジやムカデは私だって怖い。
何が怖いって、あの足の数の多さ。

ああ、書いてて気持ち悪くなってきた。

 

ところで、わが家において私の活躍の場は他にもある。
うちでは食品の賞味期限とか消費期限とかをけっこう厳密に守っている。
開封後少し時間がたった食品、たとえばキムチなどの漬物類、それがまだ傷んでいないかどうか、それを判別するのも私の活躍の場になる。

つい先日のことだ。
涼しくなってきたからだろう、学校の制服(冬服)を長男Mがクローゼットから持ってきた。

嗅いでみて、と言う。

何のことか分からないまま、制服の匂いをクンクンと嗅いでみる。
特に変わった匂いはしない。

じゃあ、これ、このまま着ていけるね。

とMは安心した。

 

一体何なんだ?

 

先日、衝撃的な出来事を体験した。
一人暮らしをしている母親の家を訪ねたときのことだ。

何かが動く気配を感じてその方向に目を向けた。
動いたのはヤツだった。
キッチンの壁をゴキブリが這い登っていた。
母親のすぐ後ろだった。

ゴキブリ! と私が叫ぶと、母親は壁を振り返りざま、何を思ったのか、いや、何も思わなかったのか、躊躇なくそいつを力いっぱい叩いた。

自分の手のひらで。

 

母は強し。 

ああ、恐れ入りました。

 

 

 

 

 

 

  
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