電車が駅に着く。ガタリと体が揺れて私は目を覚ました。少し寝ぼけている私はゆっくりとあたりを見回した。酔客で一杯だった車内はいつの間にかひっそりとしている。この車両には私しか乗っていないようだ。
電車の扉が静かに開く。冷えた夜の風とアルコール臭の漂う車内の空気とが入れ替わる。ホームに人気はなかった。見覚えのない駅だった。案の定乗り過ごしてしまったようだ。
普段飲んで帰る時、私は絶対に座席には座らないようにしているのだが、今夜の酒量はそれほどでもなかったという過信から、つい座ってしまったのを思い出した。
二軒目のスナックを出たのが深夜に近かったから、おそらく折り返す電車はもうないだろう。タクシー代はいくらかかるだろうかと、どうでもいいことが頭に浮かんだ。とりあえず、ホームに出る。
外は体が強ばるほど冷えた空気に満ちていた。そう言えば、大陸から高気圧が張り出してくる影響で、今夜はかなり冷え込むだろうと夕刊にあった。
冷たい空気の中に放り出されて、ほろ酔い気分だった私は一気に素面にひき戻された。
もともと今夜はそれ程酔ってはいなかったのだ。眠ってしまったのは少し疲れていたからなのかも知れない。
忘れ物がなかったろうかと、今降りてきた電車を振り返る。車内は全くの無人だった。
飲み捨てられたビールの空き缶が転がっているだけだった。隣の車両にもその隣の車両にも何もなかった。
車内の照明が点滅し始めた。車庫へ入るという合図だろうか。ついに照明は消えたままになり、整然と並ぶ吊り革の白さを網膜に残し車内は真っ暗になった。扉がガラリと渇いた音をさせて閉じる。どうやらここは終着駅らしい。
ホームに目を戻し、駅名を探す。この駅に着いたのは私一人だけだったようだ。ホームには他に人影はなかった。私の吐く息だけが白く凍って流れていく。
ホームの照明が点滅し始めた。駅も眠りにつく時間になったようだ。のんびりホームに佇む私を見て、駅員がしびれを切らせたのかも知れない。私はホームの端に、ぽっかりと口を開けている地下へ降りる階段を見つけた。
地下をくぐった先に改札があるのだろう。急かされるようにしてそちらに向かって歩き始める。
腕時計に目をやると、まだ十時前だった。が、そんなはずはない。確かに電車に乗った時はもっと遅かったはずだった。秒針の動きを確かめる。秒針は5と6の間を指したままで止まっていた。ここがどこか判らない上に、今が何時なのかも判らなくなってしまった。
ホームの時計を見ようと振り返ると、照明はすでに消されてしまっていた。まだ客が残っているのを確認もせずに駅はもう眠りに就こうとしていた。駅は、眠りを妨げる私の存在が邪魔なのだろうか。
あたりの景色を見渡してみたが、線路の向こうに続いているはずの町並みもとうに眠りに落ちてしまったらしく、ただの闇が広がっているだけだった。よほど郊外の街にまで来てしまったらしい。窓からもれる灯りも店のネオンサインも、何一つ見えるものはなかった。起きているのは、私とこの駅だけのようだ。
階段を降り始める。靴底が階段のコンクリートの床を叩き、重い音が地下へ続く通路に響いた。背中をホームから吹き込む冷たい風が押す。もうすっかり酔いは醒めていたが、それでも足元をしっかり確認しながら、私は階段を降りていった。天井はかなり低く、狭い通路は圧迫感すら覚えるほどだった。
背後でカランと甲高い音が弾けた。反射的に音の方に目をやる。カランカランと音が続き、空き缶が落ちてきた。ビールの空き缶だった。風に転がされたのだろう。そいつは私を追い越して落ちていった。静か過ぎる夜がその音を何倍にも増幅して聞かせてくれる。
カランカランカランと。再び歩き始めた私の靴音がその合間に響く。通路は二つの音が絡まりあった不協和音に苛立っているようだった。二つの音はやたらと気味悪く交差する。
カランカランとまだ空き缶の転がる音が続く。やがて空き缶は私の視界から消え、ずっと下まで落ちていってしまった。空き缶の存在を示すものはその転がり落ちる音だけだった。どこまでもどこまでも落ちていくように聞こえる。
長すぎやしないか。
私自身、かなり降りたように思うのだが、まだ階段は続いている。やはり長すぎる。この階段はどこへ通じているのだろう。いや、どこかへ通じているのだろうか。
背筋を冷たいものが走った。振り向くと、さっきまで通路を照らしていた照明がふっと消えた。私を急かすように、そして後戻りできないように、私が通り過ぎた後の灯りは順々に消えていく。階段の上方に向かって私の影が長く伸びていた。その影の頭の先にはホームがある。
一瞬私はもう一度地上に戻ろうかと考えた。が、すぐにつまらない、訳の判らない不安を脳裏から振り払った。
この階段が通じている先は改札口に決まっている。一体私は何を怖がっているんだ。遠ざかっていく空き缶の音が少し私を弱気にさせたようだった。
頭上の照明が点滅し始めた。その無機的な明滅が、私を急かせる。どこからか駅員は私の姿を監視しているのだろうか。
早く駅を閉めて仕事を終わらせたいのなら、アナウンスを流すなり、ホームまで来て誘導するなりしてくれればいいのだ。私は早く改札まで行って、駅員に文句の一つも言ってやりたくなった。
再び階段を降り始める。空き缶の音はもう聞こえなくなっていた。転がるのを止めたのだろう。通路には私の靴音だけが響いている。
それにしても、この階段は長すぎる。
次第に靴音が強くなっていく。私の意志とは関係なく降りる速度が早くなっていく。得体の知れない不安が私を急がせていた。
私は足だけが勝手に先へ先へと進み続けているような錯覚にとらわれた。違う生き物を見るように私は自分の足元を見つめた。そして、もう転がるのを止めたはずのビールの空き缶を探していた。
そんなにいつまでも転がり続けるはずはないのだ。いつまでも階段が続いているはずなどないのだ。
足早になった私の靴音がさっきの数倍の大きさで通路を満たした。その中に、微かに甲高い音が混ざって聞こえてきた。確かに缶の転がる音だった。
私は音を追いかけた。音が少しずつ大きくなってくる。そしてゆっくりと転がり続ける空き缶が私の視界に入ってきた。
ビール名のロゴがくるくると回って見える。空き缶は一段一段を確かめるように下へ下へと落ちていた。どこまでも続く階段には終わりがないようだった。
私はそのまま空き缶を追い越して、降り続けた。そして、駈けるように底へ落ちていった。背後からビールの空き缶と暗闇とが追いかけてくる。
光りが目を刺した。視界が開けた。終点だった。追いかけっこの幕切れだった。
地下のコンコースは眩いほどの明かりに満ちていた。私は立ち止まり、ゆっくりとコンコースを見渡した。そして息を整えた。階段には当然あるはずの終わりがやはりあったのだ。もう何も恐れることはなかった。
コンコースの中央にぽつんと改札口が見える。その真上に丸い白熱灯がぶらさがっていた。眩しいと感じたのは一瞬の錯覚だった。
コンコースは薄暗い空気の底にあった。狭いコンコースを照らしているのはその灯りだけだった。通路から吹き下ろす風が白熱灯を揺らした。
カランと音がして、さっきの空き缶が足に当たった。そして空き缶はようやくそこに止まった。もう一度背後の階段を振り返ると、すぐ上にホームの屋根が見えた。
どうかしている。やはり酔いが残っているのかも知れない。階段は三十段ほどしかなかった。
改札に駅員の姿はなかった。改札の横には駅員室があるが、灯りは消えていた。改札の外にも人影はなかった。仕方なく、私はそのまま改札を出た。誰も私を咎める者はいない。
無人駅なのだろうか。拍子抜けしたような気分だった。
肌を刺すような冷たい風が私の横を通り過ぎた。そして、丸い白熱灯が点滅し始めた。
駅はあくまでも私を排除しようと考えているらしい。私は慌てて出口を探した。改札から外には出たが、まだ私は駅舎の中にいるのだ。
コンコースを見回す。地上への階段がどこかにあるはずだ。白熱灯の明滅する速度は次第に速くなり、私は眩暈を覚えた。駅はいつまでも眠れぬことに苛立ちを強くしているようだった。
風が私の周りで渦を巻いた。白熱灯が大きく揺れる。私の影法師もつられて揺れる。影法師は勝手に踊りだす。白熱灯が瞬く。頭の中が白くなっていく。そして、灯りが消えた。
さっき出てきたばかりの改札の横に通路があった。何かに押されるように私はそこに向かっていった。冷たい風はその奥に向かって吹き込んでいる。風に運ばれるように私はそこへ走り込んだ。
通路の奥は階段になっていた。そして、それはさらに地下へと続いていた。昇りを予想していた私は足をもつれさせてしまった。体のバランスを失い、そのまま私は宙に放り出された。
スローモーションで宙に浮いた自分を感じている私は、その時これはきっと酔っ払った頭が作り上げた夢か幻想なんだろうなと、やけに冷めて考えていた。きっと目が覚めると家の布団の中にいるか、せいぜい電車の中で寝過ごしてあせっているくらいなんだろう。
ゆっくりゆっくりと近づいてくる階段のコンクリートの床を見つめながら、まだそんなことを私は考えていた。
カラン。音が弾けた。
私の体は階段にぶつかって甲高い音を発した。そしてそのままくるくると回転しながら、階段を転がり始めた。
階段のコンクリートと通路の天井とがフラッシュバックする。カランカランと音をたてながら、私はゆっくりと階段を転がり落ちていった。
私は空き缶になっていた。
私のことだからきっとビールの空き缶なんだろうなと、つまらないことを考えながら、私はその回転に身を任せた。私が発する甲高い響きは通路の天井に当たって大きくこだました。
遠くまでこだまは響く。ずっと遠くまで。
ぐるぐる回り続ける私の視界に、一瞬驚いてこちらを振り返る男の顔が映った。私は男の足元をかすめるようにして、どんどん下へ転がっていった。
深い深い階段だった。