森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

急性チョコレート中毒。 (創作短編小説)

「ま、おひとつどうぞ。いける口なんでしょう。今夜は御社と弊社とが、めでたく手をとりあって、新たなる旅立ちを始めようと言う門出でございます。ま、遠慮なさらずに、どんどんいって下さい。支払の方はこちらで持たせて頂きますから。はははは」

 

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 男はうすら笑いを浮かべながら、やたらと気前よく俺に勧めていた。
 どうせ使い捨ての営業のくせに、弊社なんて偉そうに言うなよ。さっきからへらへらへらって、大きな口を開けて笑うんじゃない。そんなに口の奥まで見せびらかすなよ。大した入れ歯でもないくせに。接待上手を自慢するならもうちょっと上等の入れ歯にしろよな。課長クラスなら金の総入れ歯が相場だろ。まだまだその程度じゃあまり修羅場をくぐり抜けてきたとは言えないよ。おい、そのチョコレート臭い息をこっちに吐きかけるんじゃないよ、全く。

 俺は慣れない仕事に、苛立ちを爆発させそうになっていた。と言っても、今夜の俺は接待されるのが仕事で、適当に相手に期待をもたせるような話だけをしていればいいのだったが。担当の部長がどうしても今夜は都合がつかないと言うんで、ピンチヒッターを引き受けさせられてしまったのだ。報酬は一本という約束だった。

 しかし、どうにも今夜の相手は好きになれないタイプだった。やたらと低姿勢で、しゃべりまくる。もう少し品と言うものを出せないのだろうか。唇の端に茶色く溶けたチョコレートのカスをくっつけたまま、へらへら男はべらべらとしゃべり続けていた。めでたいめでたい。だから食べろ食べろと、さっきから同じことばかり繰り返している。

 それでも俺はあまり不愉快な顔をする訳にはいかない。別に俺が付き合う訳ではないが、会社としてはこれからの重要な取引先になるかも知れない相手だ。適当に愛想よくもしておかなければならなかった。

「あ、すいません。ダメなんですよ。うちの会社は変なところできちんとしていて、こういう場で失礼があってはいけないって言うんで、下戸を選んで来させるんですよ。あ、すいません、本当にダメなんですよ。あ、じゃあ、ほんとに一口だけ頂きます」

 遠慮している訳ではなかった。俺は本当に下戸なのだった。しつこく勧めるへらへら男をぎろりと睨みつけて、しぶしぶ俺はチョコレートを受け取った。アーモンドクラッシュ入りだった。確かこの店の自慢料理だったはずだ。

 俺は息をつめて、へらへら男から受け取ったチョコレートを何とか口に押し込んだ。甘ったるい味が舌の上にべったりと広がった。素早く噛み砕いて飲み込んでしまおうとしたが、アーモンドクラッシュが喉の奥に引っかかっててこずっている間に、奴は既に第二弾を俺の方へ差し出してきていた。今度はホワイトチョコだった。

 俺はひたすら頭を下げて、なんとかそれを回避した。ちょっとペースが速すぎる。俺は奴に、アーモンドクラッシュの返杯をしながらいつものくだらないジョークで場を凌ごうとした。

「いやあ、これも子供の頃バレンタインデーにチョコレートの顔を拝めなかった後遺症でして、はは。俺はチョコレートなんて大嫌いだあ、なんて布団の中でよく泣いたものですよ。ははは」

「いやいや御冗談ばかり。僭越ながら、この私でさえバレンタインの日には下駄箱にごっそりと入っていたものですよ。こんな二枚目のおたく様がそんなに寂しい思いをされていたなんて。ははは」

 へらへら男はどろりとチョコレート濃度の濃いよだれを口元にたらしながら笑い続けていた。いくらなんでもごっそりとは言い過ぎだろう。奴は少し酔ってきているらしかった。その上どうやら俺の話を本気にしたらしい。奴の目は接待という役職を忘れて、もてなかったと言う俺を本気であざ笑っていた。

 冗談に決まってるだろ。もっとも俺はチョコレートなんかもらっても、うれしくもなんともなかったが。俺は奴の頭の悪さに余計に苛立ちをつのらせた。奴の顔はもう真っ赤になっている。相当まわってきたようだ。ま、ここはもう少し我慢してやろう。俺は口に残るチョコレートの甘みをチェイサーで薄めながら、気持ちを落ち着かせていた。

 くどいようだが、俺は本当にチョコレートがダメだった。さっきからまだ三つほど口にしただけだったが、もう胃がムカムカし始めている。さっき酔い止めの薬を飲んできたのに、あまり効き目はないようだった。

「お手が止まっていますな。もうここのチョコレートには飽きられましたか。ま、河岸を変えればまた、いくらでも入るってものですよ。せっかくですから、もう一軒行きましょう。まだ時間は早いじゃないですか。いい店があるんですよ。どうせ、会社の金ですし。はははは」

 奴はまた高らかと笑い声を張り上げながら、あたり構わず茶色い唾をまき散らした。ろれつが回らなくなってきていた。奴は大きな音で両手を打つと、女将を呼んだ。

 俺はその隙にトイレに立つことにした。うがいをして、顔でも洗えば気分が良くなるかも知れなかった。

 俺の下戸は親譲りだった。両親とも全くチョコレートはダメだった。体質的に甘いものを受け付けない家系なのだろう。酔う前にすぐに吐いてしまうのだった。親父はそれで何度かあった出世の機会をダメにしていた。

 座敷を振り返ると、奴は食べ残したチョコレートを土産に包んでくれと女将に頼んでいるところだった。うれしそうな笑顔を満面に浮かべている。

 トイレには先客がいた。先客は大の個室のドアを開けたままにして、しゃがみこんでえずいていた。俺も適当にしておかなければ同じ運命をたどることになる。俺は辺りを見回すとポケットから小瓶を取り出し、その中身を一口だけ素早く飲んだ。トイレには他に誰もいない。酔っ払い男はえずき続けている。

 ゆっくりと生ぬるい液体が喉を通り、胃袋に落ちていく。じわりと熱い感覚が胃に広がった。俺は安堵のため息をついた。これでさっきまでの胃のむかつきが治まった。

 言うまでもない。その液体はウイスキーだった。

 小瓶の中身はもう残り少なくなっていたが、この仕事をなんとかすませられれば部長から新しいのが一本手に入ることになっている。俺はもう一度辺りの様子を窺い、誰も見ていないのを確かめると、思い切ってもう一口あおった。部長は板チョコなら一晩に五十枚くらいはいける口だったが、仕事の性格上いろんな好みの奴に出会う。だからそのために裏のルートからウイスキーを手に入れる手段もきちんと確保していた。俺は小瓶を振って、残りを確認するとトイレを後にした。酔っ払い男はまだえずき続けていた。

 店の外ではへらへら男が足元をふらふらさせながら俺を待っていた。両手に土産の包みを下げている。一つは俺用のものなのだろう。俺は苦笑いを浮かべながら奴からそれを受け取った。

 一体どうして、チョコレートなんかで酔っ払えるのだろう。接待という仕事をほとんど趣味でやっているようなへらへら男の顔をじっと見つめながら、俺は少しだけこの男をうらやましく思った。

 奴の案内した二軒目は、狭い路地を何度も曲がった奥にあるスタンドだった。お決まりのカラオケの音が聞こえてこない。店のネオンも遠慮がちに点けているひっそりとした店だった。

「ここはちょっと変わったものを置いていましてね。おたく様のお口にあわないかも知れませんが」

 奴は俺の耳元に口を寄せ、甘ったるい息を吐きかけながらこっそりとそう囁いた。

 店の中は薄暗く、細長いカウンターが奥へと続いていた。止まり木にはアベックが一組いるだけだった。スローなジャズが流れている。男は煙草をくわえ、女は茶色の液体を舐めていた。カウンターの中には中年のバーテンダーが手持ちぶさたに立っていた。

 奴は店に入った時から、へらへら笑いを止めた。そしてバーテンダーに目配せをすると、店の一番奥へと入っていった。

「あなたこっちの方はどうです」

 奴はグラスをあおる仕草をして見せた。酒のことだろうか。奴の目は怪しく光っていた。「こっちの方って・・・」

 尋ねようとする俺を、奴はシッと唇に人差し指をあてて制した。バーテンダーが二人の前にグラスを並べ、透明な液体を注ぐ。グラスに浮かんだ氷がカランと音をたてた。

「いける口なんでしょう」

 奴は俺のグラスに自分のグラスをこつんとあてると、自分から先にそれを一気に飲み干した。これで同罪って訳か。なるほど、案外奴は頭の切れる人間なのかも知れなかった。 空になった奴のグラスにはすぐに二杯目が注がれた。

「住みにくい世の中になったものですね。こんなに美味いものをこそこそ隠れてじゃないと、飲めないなんて。チョコレート何十枚食っただの百枚食っただのって偉そうに言う奴がいますが、私にすればこんなに美味いものをやらずに、よく生きていられるなって思いますよ。ねえ、そう思いませんか」

 奴は至福の表情を浮かべながら俺に同意を求めてきた。

「その通りですよ。チョコレート党ばかりが大きな顔をしてのさばっている世の中なんてどこか狂ってます。実は私も宴会の度に苦手なチョコレートを勧められてまいっていたんですよ」

 俺はうれしくなって奴にそう応えた。

「ま、一杯どうぞ。大丈夫ですよ、ここでのことは全てオフレコですから。世の中いろんな人間がいて当たり前なんです。ま、どうぞどうぞ」

 奴は低い声でそう勧めた。どうやらここはその筋の店らしい。

 前に一度部長から、闇で酒を飲ませる店があるらしいことを聞いたことがあった。腹一杯チョコレートを食わせても女を抱かせても、どうしても墜ちないクライアントへの最後の切り札に使うのだそうだ。やはり奴も接待のプロだった。俺は奴の顔を少し頼もしく見つめ直した。そして、俺は自分の前に置かれたグラスの中身をぐいと一気に飲み干した。

 

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 強烈な甘さが喉を刺した。液体の正体はガムシロップだった。俺は半分飲み込んだ液体を思わず床に吐いた。そしてそのまま口を押さえて、トイレに走り込んだ。そして、げえげえと胃の内容物を吐き散らした。

どろどろに溶けた茶色の吐瀉物はもう一度俺の口の中に甘ったるい後味を残して便器に消えていった。頭がガンガンしてきた。胃の中は空っぽになったはずなのに、吐き気だけがいつまでも続いていた。

 振り向くと奴は不思議そうな顔をして、三杯目のグラスを空けていた。

 明日は二日酔いで休むことになりそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

  

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