土曜日の朝、起きると街は朝靄に沈んでいました。
桜がやっと咲きそろい、この週末の花見を楽しみにしていたのに、木曜から続く雨。そして気味が悪いくらいの生暖かさ。条件は十分整っていました。
窓を開けると、景色がモノクロに変わっていました。道をはさんだお向かいの家のシルエットが白くぼやけて見えます。朝靄は世界から色彩を奪っていったようです。
僕の実家はYという山村で、H市からバスで2時間くらい揺られて行った所にありました。昔ながらの山を切り拓いてつくった段々畑や、黒や青色の瓦の合間にはまだちらほらと茅葺き屋根の残るそんな小さな村でした。
僕の家はその村の中心から、まだ少し奥へ入った所にありましたが、その近くの山の中腹に古い神社があり、老人の方はその神社を「やまさま」と呼んでいました。
僕の家の付近の山は、どれも木々が深く、一年中闇に閉ざされていました。奥へ入るほどにさらに山は険しくなり、人の手が入ったという話は聞いたことがありませんでした。
僕自身も山育ちではありましたが、奥の山々には滅多に入ったことはなかったし、親たちも、それを固く禁じていました。
ただ一度だけ祖父がまだ生きていた頃に、奥の山へきのこ狩りに連れて行ってもらったことがあり、その途中で偶然「やまさま」の前に迷い出たことがありました。
それはあまりにも突然のことでした。祖父と一緒に入ったのは確か、「やまさま」の裏側の山だったはずなのに、道に迷い、来た道を戻ろうとし始めた瞬間に林が開け、「やまさま」の前に現れてしまったのでした。靄があたり一面を覆っていました。
祖父がそうと教えてくれたわけではありませんでしたが、僕にはすぐにそれが「やまさま」だと分かりました。
僕が「やまさま」を見たのはその時のたった一度きりでしたが、その重々しい姿は今でもはっきりと頭に思い浮かべることができます。
いつの頃に建てられたものなのか、水車小屋くらいの小さなその祠は、一面びっしりと厚い苔に覆われてしまって、その素顔をかいま見ることはできませんでした。
太い楠に囲まれてそのまま自然に溶け込んでしまっているような、そんな感想を抱いたのを覚えています。
でも、その時じっとその祠を眺めていたのは、ほんの数秒だけだったに違いありません。
「やまさま」の前に現れるや否や、祖父は大声で僕に「耳をふさげ」と叫んだからです。
そのあと僕と祖父とは、一目散に「やまさま」から逃げ帰ってきました。僕はなぜか泣いていました。泣きながら走って帰ってきました。そしてその晩はひどく胸が高ぶり、いつまでもいつまでも眠れませんでした。
その祖父はもうとうにいません。村からは若い世代がいなくなり、お年寄りばかりになり、両親も年老いました。
今回久しぶりに村に帰り、見る山々はとても大きく感じられました。麓にあった田畑が野に返り、僕の育った家も、学校も、道も全てが山に溶け込んで見えたからかも知れません。
僕はH市にある僕の家に両親を連れてきて同居してもらうことにしました。ですので、この家で過ごすのもその夜が最後になります。
僕は親父と酒を酌み交わしながら昔話にふけりました。この家も、住みかとして働くのは、おそらく今日限りでしょう。僕も親父もほどよく酔いがまわった頃、話はなんとなく「やまさま」のことになりました。
「やまさま」というのは、あの祠の中に大きな井戸が祭ってあってな。その井戸があまりに深いもんやで、一度その井戸の底に向かって声を出せば、それがいつまでもいつまでも、中でこだまし続けて、決して消えてしまうことがなかったんやそうや。
昔、まちから駆け落ちしてきた男女が、連れ戻しにきた親の使いから追われ、ついに逃げ切れずにその井戸に身を投げて心中したことがあってな、その時以来その井戸から男女が互いの名を呼び合う声が聞こえてきて止むことがなかったんやそうや。
それを哀れに思った村人がこしらえたのがあの祠だということや。ま、今風に言うてみれば、音の缶詰みたいなもんやろうかいな。
いつになく親父はしんみりとした口調で語ってくれました。それで祖父はあの時「耳をふさげ」と、とっさに叫んだのでしょうか。
あの日、「やまさま」の前に現れた時、祖父の耳には一体どんな声が聞こえてきたのでしょう。僕には、「やまさま」の視覚的な記憶だけしか残っていなくて、音については何も覚えてはいません。
「やまさま」は深い深い靄の底に沈んでいました。
きっと祖父の耳には、心中したと言う男女の声が聞こえてきたに違いありません。そしてもし僕がまた「やまさま」に出会う時があるとするのなら、僕の耳にはきっと祖父の「耳をふさげ」という声が、この村への郷愁と絡み合っていつまでも聞こえ続けるに違いありません。
お昼過ぎには少し陽が差してきました。靄は晴れ、お向かいの家の2階のベランダには洗濯物が干されました。
この分なら明日には満開の桜を観にでかけられそうです。