森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

ガラス越しの猫

大学生になって一人暮らしを始めた。

初めて親元から離れて住んだのは6畳の和室に流し台とガスコンロがついただけの部屋だった。1畳分の押入れもついていたが、トイレと風呂はなかった。トイレは共同。風呂は、そもそもそのアパートにはなかった。そのアパートの住人、というか、そのアパートの近所の人たちはみんな銭湯を使っていた。

震災で倒壊して今はもうなくなってしまったが、ひょっとして戦前に建てられたのかも知れないオンボロの木造アパートだった。

でも、文句は言えない。家賃はわずか九千円だった。その部屋には大学を出て就職してからも、あしかけ九年ほど住んだが、その間ずっと家賃は変わらなかった。

家主は遠方に住んでおりめったに姿を見せない、というか、山猫は家主と会ったことがついぞなかった。以前から住んでいた住人の方の話によると、一度だけ見たことがあるが、そのとき家主は縄をベルト代わりにして腰に巻いていた、という。

建築基準法とか、そんな決まりができるもっと前に建てられたからかも知れない。アパートに続く路地は車が入ってこられる幅はなかったし、南隣のアパートが軒を接するようにして建っていた。

山猫の部屋は2階の東南の角部屋だった。でも、せっかくの南側の窓を開けても、すぐ目の前が隣のアパートだった。だから少しも日が差し込んでこなかった。

隣のアパートの部屋の窓がそこにあり、手を伸ばせばその窓ガラスをノックできるくらいの距離しか離れていなかった。

山猫が引っ越してきてからずっとその窓はカーテンが閉められたままで、誰が住んでいるのか、誰も住んでいないのか、全く分からなかった。

が、夏の暑いある日、開け放した窓の外に目をやると、隣の部屋のカーテンが動いた。言っておくけど、覗いていたわけじゃない。絶対にない。

カーテンをかき分けてこちらに顔を出したのは、猫だった。

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茶色の子猫だ。

初めこそ、すぐに顔を引っ込めてしまったが、二度目以降は少しずつそいつは警戒心を解いていったようだ。

猫はガラス窓の向こうなので、えさで釣る訳にはいかない。

帰宅して窓を開けてしばらく待つ。そいつが顔を見せると、山猫は(僕は)猫語で「ただいま」と言いながら右手を上げて空を引っかくような仕草をする。

するとそいつも真似て目の前にあるガラス窓を引っかく。「おかえり」と言うように。ガラスの向こうからかすかに鳴き声も聞こえてきた。

一人と一匹は顔を合わすたびにその挨拶を交わした。

一人と一匹はえさをやるもらう、の利害関係で結ばれる間柄ではなかった。言うなれば、1対1の全くのイーブンな関係だった。

つまり山猫とそいつとは友達だった。

山猫は(僕は!)初めて猫と友達になった。猫の友達ができたのは、後にも先にもこのとき一回きりだ。

 

でも、そうした付き合いはそれほど長くは続かなかった。

いつだったか忘れてしまったけど、そいつの飼い主が引っ越して、僕たちの友情は終わった。

そいつが誰と住んでいたのか、その部屋の住人がどんな人だったのか、果たして人間だったのかどうなのかさえ、山猫は知らない。でも、そいつは確かにガラス窓の向こうに住んでいた。

一度でいいからそいつの頭に触れてみたかったな。

何年かして山猫はそいつのことを小説に書いた。そいつがある日タマゴを生んだっていう話だ。