森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

依存する。。。

あけましておめでとうございます。

新しい年がみなさんにとって幸多き年になりますように。

 

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年が改まり、今なら新しく(もう一度?)始められそうな気がして。。。

しばらく途絶えていましたが、もうしばらく書いてみます。 

もうすぐ冬休みが終わります(山猫は9日まで冬休みが続く仕事に携わっています)。山猫は1月4日、大阪日本橋に出かけました。

パソコン周辺機器や妙な電化製品に会いに、無性に日本橋をさまよいたくなったのです(決して正月早々メイドさんに会いくなった訳じゃないです)。この衝動は数ヶ月に一度くらいのサイクルでやってきます。

ですが、今回書くのは、日本橋で見つけた妙な電化製品のことではありません。

「依存症」のことです。

山猫はマスク(鼻や口周辺を覆うやつ)が持っているもう一つの意味を今更ながらに知りました。

マスクを着けているととても落ち着く、ということです。

 

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「大阪に行ってくるわ-」と朝食のあと奥さんに言うと、あれこれ詮索はされず「どうせ、日本橋でしょ」と分かってくれる。これぞ阿吽の呼吸?

ただ、「人混みに行くんやからマスクしていってね」とやんわりと釘を刺された。

そういえば、朝から頭が重かった。正月三が日のあいだ飲み続けていたせいだとは思うが、ひょっとして風邪かもしれない。奥さんも子供たちも体調を崩しているし、これは用心するに超した事はない。と素直に思い、この日の大阪行きの間ずっとマスクをして過ごした。

これまでの経験上、マスクを着けると口の周辺がもわっと湿気を帯びて不快極まりなくなるはずだった。が、この日はなぜか平気だった。寒くて空気が乾燥していたからかな?

しばらく梅田行き阪急電車に揺られながらぼんやりと車内に目をさまよわせていると、マスクを着けていれば知り合いに会っても自分だと分からないんじゃない? と気づいた。そういえば、顔が広く知られた芸能人とか指名手配中の犯人なんかが街に出るとき、大きなマスクを着けてサングラスをかけている、みたいな図があるな。サングラスはかえって目立つような気がするけど、マスクだときっと誰も気にしないはず。そう思うととても気分が楽になった。

今更ながらに、こんな当たり前(?)のことに思い当たって、山猫はなんだかうれしくなった。

言っておくけど、別に、誰かに追われているわけではない。

 目立ちたい、みんなから注目を浴びたい、という人もいれば、このときの山猫のように、誰にも知られたくない、見られたくない、気づかれたくない、話しかけられたくない、という人もいるのだ。そのときはそんな気分だった。

繰り返すけど、誰かに追われているわけでも、やましいことをしているわけでも決してない。

というような話を帰宅してから奥さんにすると、「知らなかった? マスクに慣れると外せなくなるのよ。そもそも、だからお化粧だってするんじゃない。お化粧すると素顔の自分を隠せるから、気が楽になるのよ」と教えられた。

「伊達マスク」という言い方があるらしい。

一種のファッションとして、あるいは仮面のような使い方でマスクをかけることがあり、これを「伊達眼鏡」と同じ考え方で「伊達マスク」と表現するそうだ。これが当たり前になって、さらに心理的にも物理的にも手放せない状態になるのが「マスク依存症」だと言う。

自分の身体的なコンプレックスを隠すため、あるいは他人との会話が苦手、表現が下手などのような、他人との接触を恐れる原因となるウィークポイントを有しており、その部分をカバーするための心理的な壁・バリアー的な認識をマスク(を着用した状態)に与えているというもの。つまり心理的安寧を得るためのお守りのような存在だが、顔を隠す物理的な効用もあること、そして震災以降は特にマスク装着の状態が社会的に是認されるようになったため、よりハードルは低くなりつつある。 

不破雷蔵 「若者に多い伊達マスク経験者とマスク依存症の実態」より)

そういえば、この日もそうだったが、山猫は通勤の行き帰りでずっとヘッドフォンをしてiPhoneで音楽を聴き続けている。イヤフォンではコードが邪魔なので、Bluetooth対応のヘッドフォンを以前から使っていた。

あくまでこれは音楽を聴くため、のつもりだった。が、ヘッドフォンをして誰にもはっきりと認識されるように耳を塞いでいることで、人から話しかけられるのを暗に拒んでいるのかもしれない。きっとそうかもしれない。これって、「ヘッドフォン依存症」かな?

自分のお気に入りの音楽を聴くことだけに閉じこもって、人とのコミュニケーションを絶つ。気分が落ち着くのは、好きな音楽を聴いているからだけではなかったのかもしれない、と思い当たった。

じゃあ、サングラスは? 帽子は? それぞれに「依存症」という言葉をくっつけてネットで検索してみると、出てきた出てきた。

ほかにもあった。依存して得られるのは、外見を隠すことによる心理的安寧だけではなかった。

「手袋依存症」は、素手で物に触れることを極度におそれる不潔恐怖を和らげるためだし、「マフラー依存症」は寒さ対策からだった。

身に付ける物それぞれに依存症があるとしたら、おそらくきっとこれもそうだ、と山猫は思った。

「服依存症」だ。

ファッションとしての服を買いまくる、という話ではない。服を着ると心理的安寧が得られる、という意味での依存症だ。

太古、みんな裸で暮らしていた。ひょっとして現代人よりもう少し全身が毛深かったかもしれないが、間違いなくみんな裸で暮らしていたはずだ。

いつの頃からか、大きな葉っぱか何か? 動物の毛皮か何か? で身体の一部を覆ってみるようになる。最初はそれは単なる寒さ対策だったのかもしれない。ひょっとして、身体の急所を保護するための物だったのかもしれない。

が、身体を覆い隠すことで私たちのご先祖様は、妙に気分が落ち着くことに気づいた、のかもしれない。そして、いつからか、服は身体を覆い隠すこと自体が目的となっていった。

とすれば、遙かな未来では、私たちの子孫は全身をアバターに包んで、素肌を一切見せずに一生を過ごすようになっている、きっと。

 

 

 

 

 

 

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