森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

山猫ノート 阪神淡路大震災記 2

 地震から何日か停電していたから、個人的な一番の心配事といえば、家のことなんかじゃなくて、パソコンのハードディスクの中のデータのことだった。パソコン本体ならまた買い直すことができる。でも中身が消えたら戻ってこない。と言っても、ハードディスクに入っていたのは、メールや手紙のほかには、ゲームとか音楽とかのデータくらいしかなかったはずだ。そんなもののことを、私は地震直後の神戸のど真ん中で、のん気に思い悩んでいた。あまりにものん気に。
 後で分かったことだが、わが家は、築後まだ日が浅かったせいもあってか、被害はそれほどひどいものじゃなかった。屋根瓦がずり落ち、しばらくは雨漏りもしたが、二階の部屋の内装は家具が倒れたのを除けば、ほとんど傷んでいなかった。一階は揺れの力がより強く作用したからだろうか、石膏ボードをはめ込んだ薄っぺらい壁が剥がれてしまい、外壁にも何カ所かひび割れが入った。でも、それだけで済んだ。家は倒れずに残った。
 揺れの最中、何かが上から落ちてきて、身体に当たった。私は掛け布団を頭まで被ってそれを受け止めた。
 降ってきたのは衣装ケースだった。押入の天袋に入れていたのが、襖を跳ねとばして落ちてきた。同じように押入に押し込んでいた箱やら何やらも次々に落ちてきた。痛みは感じなかった。しばらく布団の中でじっとしていて、さあ、どれくらいそうしていたか。やがて静かになった。すべての音がぴたりとやんだようだった。

 その辺から記憶が途切れている。たぶんすぐに雨戸を開けて外を見たと思うが、見たはずの外の景色を覚えていない。私の寝室は二階にあって、その部屋の窓は東に向いていたから、湊川公園の方角が見渡せたはずだ。でも、その角度では倒れた家は見えなかったのかもしれない。だから覚えていないんだろう。それとも、まず一階に下りていったのかもしれない。
 階段を下りると、すぐ先が玄関になっている。その玄関のドアが外れていた。ドアのサッシごと外れていた。それで辺りがすでに明るくなっているのが分かった。
 用心しながら外に出ると、向かいの家がぺしゃんこに潰れていた。ずいぶん古い木造の家屋で、たぶん空き家だと思っていたから、あれくらい揺れれば、そりゃ倒れるのも仕方ないな、と軽く思ったものだ。家が壊れるとこれほど小さくなるものなんだ。私は妙なことに納得しながら、その残骸を見ていた気がする。後で聞くと、人は住んでいたらしい。家の人が逃げ出した直後にそれが潰れた、という話も誰かから聞いた。だから、私が屋外に出たのは、地震からかなり時間が経った後だったのかもしれない。
 妙な匂いが漂っていた。ガス漏れじゃない。あまりに場違いだけど、それはアルコールの匂いだった。ほんのり甘くていい匂いがしていた。きっとどこかの家のサイドボードに置いてあったとっておきのウイスキーのボトルが割れたんだ。そうに違いない……。やはりのん気に、私はそんなことを考えていた。

 

 

 

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