森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

ターニャ (創作短編小説)

 
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誰もが彼女に魅せられていた。
透き通るような白い肌、水色の瞳、腰まで伸びた栗色の髪、そして笑顔、澄んだ心が滲みでてくるように感じられる……。

もちろん俺の好みだ。社員総会の社長の話など誰の耳にも届いてはいない。
東欧の新興独立国であるラトバニア共和国からこの会社のマーケティングシステムの研修のために派遣されてきたその女性は、紹介の三十分後には社内メールでその美しさが称えられるほどの輝きを持っていた。

彼女の名前はターニャ。

ターニャの祖国は民主化推進のために、多くの若者を先進諸国に派遣する政策をとっていた。
旧ソビエトの呪縛から逃れるために国内の旧勢力を一掃し、若い力に一国の将来を託している共和国に西側諸国は清々しいものを感じている。

そんな国の一員らしく、俺たち社員一人一人に挨拶するように視線を向ける彼女に誰もが親しみを覚えたに違いない。

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俺の勤めているこの会社は「ビッグ4」と呼ばれる日本流通業界の四大企業の一つである。
ターニャを任せられた俺の所属する企画部は、社の司令塔的役割を担っている部署にあたる。

デスクトップに届いたメールは、彼女の研修予定が一年間だと知らせてきた。
日本語学校の教師をしていたので会話には心配がいらないこと、スリーサイズや独身だという情報まであった。

 

メールが届いた。

……沢崎光司、鼻の下伸ばすんじゃないよ。このスケベヤロー。ターニャはお前なんかには関係ないよ……

ご丁寧にわざわざ忠告してくれる奴がいる。

俺は肩書こそ企画部付きだが、実際は「陸上部」所属だった。仕事は走ることだけだ。マーケティングシステムなんてクソくらえだ。

俺は低迷を続けてきた日本男子マラソン界の奇跡の救世主と呼ばれ、次のTOKYOでもメダル獲得は絶対視されている。
これから当分の間、いや少なくとも今世紀中は、この国から俺を凌ぐ奴など出てくるはずはない……。

最初に勤めた会社で俺の名前は一躍全国レベルになった。
金にならない学生スポーツには興味などなかったから、高校卒業までは適当に体力づくりをする程度で済ませていた。
練習をし過ぎて身体を壊してしまったら元も子もない。
社会人三年目に、俺は「一万メートル」でその年の日本最高を記録した。俺の才能がもうそれ以上寝たふりを続けることに飽きてしまったのだ。

その一カ月後、俺はこの会社にヘッドハンティングされた。
スポーツ紙の記事によると、その裏で数億円の金が動いたということだ。大きな声では言えないが、その記事は大筋のところは真実を伝えている。
俺、沢崎光司はそれだけの価値のある商品なのだ。
その後マラソンに転向した俺は走るたびに記録を伸ばし、ついに一昨年のオリンピックでは日の丸を揚げることができたのだから。

俺は一人でどこまでも昇り続けることができる。

だが、一人なのは走っているときだけではなかった。走り終わった後も俺は一人きりだった。

企画部にある机にはパソコンが一台おいてあるだけだ。他には何もない。
走ること以外に俺は何も期待されていないのだ。それは社の連中に俺が何の価値も覚えないのと同じだった。
好記録を出した俺を待っているのは形だけの祝福だ。

乾いた拍手の音……、ただそれだけだった。

俺は記録をだして当然の存在なのだ。仕事もせずに、自分勝手に思う存分トレーニングすることができれば誰にだってそれくらいの記録はだせるよ、連中の表情はそう語っていた。

奴らは、仕事の役に立たない俺を心の底では軽蔑している。
面と向かって俺に嫌みの一つを言う勇気も持っていないくせに。
スーツ姿で出勤する俺に、奴らは「ジャージで出勤すれば手間が省けるだろうに」などと露骨に陰口をたたく。
トレーニングはお遊び程度にしか思われていない。水面下の俺の足は必死で水を蹴り続けている。

奴らはそれを知らないのだ。

 

大会で上位入賞できなかった時など、平気で「給料泥棒」というメールを送ってよこす。その視線は年々冷たくなってきていた。

わざわざ忠告されるまでもなく、ターニャの研修には俺など一切関係ない。
そんなことくらい充分に承知しているさ。

ターニャの笑顔を一瞬思い浮かべて、俺はすぐにそれを払いのけた。

次の週、ボストンを走る。午後の便で発つことになっていた。

今回も「出張」に出掛ける俺を見送ってくれるのは、奴らの突き刺すように冷ややかな視線だけなのに違いない。

ボストンで俺は自己記録を更新し、初めて2時間5分の壁を破った。今の日本マラソン界には俺より速い男はいない。
世界中を探しても、俺の前を走れる男は数人しかいない。

どんなに会社の奴らに嫉妬され嫌われようと、俺はそれをエネルギーにしてさらに上を目指して昇っていく。

走ることは少しも辛くはない。走ることだけが俺の大きさを証明してくれるのだ。

 

帰国した夜、社外の来賓やマスコミも招いての祝賀会が開かれた。

ターニャも出席している。
もちろん、主役は俺だった。

インタヴューに答えながら、ターニャの姿を視野の隅で追っていた。

ところが、どうしたことだろう。インタビューが終わるのを待っていたかのように、ターニャが不意に俺の前に姿を現し、あの温かい微笑をたたえて俺に話しかけてきたのだ。

「私のパパも沢崎さんと同じ長距離の選手だったのよ」
ターニャが口にしたのは、旧ソビエト時代の話のようだった。

長距離の選手だって? 俺は偶然の一致に感謝した。

ターニャの流暢な日本語のお陰で俺たち二人の会話は途切れる事がない。俺は久しぶりにハイな気分を味わっていた。

写真雑誌の記者が俺とターニャのツーショットをカメラに収めたが少しも気にはならなかった。

ひとしきり話が盛り上がった後、「でも……」と彼女は顔を曇らせた。

「膝を痛め、走れなくなったパパはひどい中傷を受けたわ。そして、与えられていた家を奪われ、住み慣れた街から追い出されてしまったの。古くからの知人たちさえ、政府を恐れてパパを助けてはくれなかったって、ママが教えてくれたわ」

「君のような若い力があれば、ラトバニアはもうそんな国には戻りはしないさ」
その夜の俺は驚くほど饒舌で、理想的な優しい男を演じていた。

気分がすっかり沈み込んでしまったターニャの肩を押して、俺たちはロビーへ出る。ターニャは水色の瞳で俺をじっと見つめてくる。

そこに映っているのは俺の顔だけだった。何もかもがうまく転がっていく。

翌朝、俺たちは同じベッドの上で目を覚ました。

 

ターニャが来日してからもうすぐ一年が過ぎようとしていた。

俺とターニャとの仲を知らぬ者はいなかった。彼女との仲が親密になるにつれて、社内の俺を取り巻く雰囲気は一層重苦しいものになっていく。

TOKYOオリンピックの選考会を兼ねた大会の前夜。

応援に駆けつけてくれたターニャと一緒に夕食を食べ、俺は彼女に絶対にトップでゴールすると約束した。

何もかもが俺を中心に回っている。……確かに……、マワッテイル……はずだった。

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結果は散々だった。


前日まではコンディションは抜群だった。
でも、走り始めた頃から妙に身体が重く感じられ、ゼッケンが汗でぐっしょり濡れた。こんなことは初めてだった。

俺を次々に抜き去る選手たちを見ても、脚は思うように動いてくれなかった。

入賞はおろか、日本選手中でも十位にすら入れなかった。記録もプロ野球の試合時間並のタイムだった。

翌朝、出勤した俺が目にしたのは、デコボコにへこまされ、足型があちこちにつけられた自分の机だった。

パソコンには俺の驚異的に遅い記録を罵倒するメールが殺到していた。読むに堪えなかった。

なのに、俺の方に誰も視線を向けない。何事もなかったのように誰もがいつも通りの仕事にむかっていた。

 

「誰なんだ、一体。文句があるなら直接言えよ」
叫び声は部内に空しく響いた。

誰一人として、俺の方を振り向く奴はいない。

俺は暗く深い底へと沈んでいく気分に溺れそうになった。

 

「光司、私の国に一緒に来てくれないかしら」
ターニャだけは別だった。いつもと変わらない優しさで俺を包んでくれた。

「ラトバニアはまだまだ若い国よ。光司のような力のある人を求めているの」

「走れなくなった俺でも?」

「自分を信じなくちゃだめよ、光司。もし光司さえよければ、ラトバニア人になって、私たちの国、ラトバニアのためにもう一度走ってくれないかしら。あなたは絶対に走れる人だから」
ターニャは潤む瞳で俺を見つめている。

ラトバニア人になるって、それはどういうことだ。

「……光司さえよければ、私と……」
ターニャは白い肌を朱に染めてうつむいたまま、微かに聞こえる声でそう言った。

人生は俺を見捨ててはいなかった。ほんの少し遠回りしただけだ。

返事は決まっている。

俺たちはラトバニア大使館に駆け込み、婚姻届けと、俺のラトバニアへの帰化申請を行った。ラトバニアの国籍法では、配偶者がラトバニア国籍を有していれば帰化は簡単だった。

もう会社にも日本にも一切の未練はない。

一年間というターニャの研修期間の終了とともに、彼女と一緒に日本を離れる。

俺は必ずもう一度オリンピックの表彰台に立ってやる。
一番高い所にラトバニアの国旗を揚げてみせる。

そして、俺の存在の大きさと俺を失った損失の大きさを、日本に痛いほど強烈に感じさせてやるのだ。

 

成田空港、ラトバニア直行便……。

沢崎光司とターニャが肩を寄せ合うように座っている。
機内には沢崎以外にも日本スポーツ界で知られた顔が何人か見られる。

ヤワラちゃん2世とあだ名される女子柔道界のホープ。
前回オリンピックで個人総合優勝を飾り、日本男子体操界を一人で支えているエース……。

彼らも沢崎と同様にラトバニア人のパートナーと結ばれ、幸せ一杯の表情をしている。

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※ラトバニアは架空の国である。したがってその「国籍法」も存在しない。参考のために、日本国の例を以下に掲げる。

 

「日本国・国籍法」(帰化に関する条文の一部を抜粋)

第五条第一項
法務大臣は、次の条件を備える外国人でなければ、その帰化を許可することができない。

一  引き続き五年以上日本に住所を有すること。
二  二十歳以上で本国法によつて行為能力を有すること。
三  素行が善良であること。
(以下、四~六と第五条第二項は省略)

 

第七条
日本国民の配偶者たる外国人で引き続き三年以上日本に住所又は居所を有し、かつ、現に日本に住所を有するものについては、法務大臣は、その者が第五条第一項第一号及び第二号の条件を備えないときでも、帰化を許可することができる。日本国民の配偶者たる外国人で婚姻の日から三年を経過し、かつ、引き続き一年以上日本に住所を有するものについても、同様とする。

 

第九条
日本に特別の功労のある外国人については、法務大臣は、第五条第一項の規定にかかわらず、国会の承認を得て、その帰化を許可することができる。 

  

 

 

 

  
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