森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

シャワーを浴びる方法。 (創作短編小説)

不動産屋の車で案内されたマンションまでは、駅から徒歩15分と聞かされてはいたが、実際に歩けばもう少しあるように思えた。

1階にはコンビニが入っていたらしいが、締め切られたシャッターはどこかで見たスプレー画の落書きで賑やかに彩られ、真ん中に貼り付けられた「閉店のお知らせ」の末尾には1年ほど前の日付が記されていた。

日当たり良好と紹介された南向きのリビングの窓、それは5階建てのマンションの2階部分にあったが、そこからは、幹線道をひっきりなしに行き交う長距離トラックとそれらから排出される騒音や排気ガスがじっくりと眺望できた。

 

男がそれでもこの部屋を借りることにしたのは、この日、これでもう5軒も回ってきて疲れてきたから、というわけでも、仲介した不動産屋が家賃を少し割り引いてくれたからでもない。

浴室の広さ。多少の手入れは必要と思われたが、男は第一にその広さに納得したのだった。

 

ここならゆっくりとシャワーを浴びることができそうだ。
今すぐシャワーを浴びたい。

男はごくりと唾を飲み込んだ。

 

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「今から借りてもかまいませんか?」

男がそう尋ねると不動産屋はほんのわずか胡散臭そうな表情になったが、すぐにそれを愛想笑いで打ち消して言った。

「まず第一に浴室が広い部屋を、という条件の他に、即入居可能な物件を、というのがお客様のご要望でした。それに添ってお探ししたお部屋ですので、もちろんそれはかまいません。電気もガスも水道も使えますし、契約書の方もすぐに準備できます。ですが、その……」

不動産屋は意味ありげに言葉を区切り、男が持ってきていたキャリーバッグに目をやった。

その仕草で、男は不動産屋が自分を値踏みしているのだと分かった。

「お金のことですか。持ってますよ、今すぐお支払いできます。それともキャッシュじゃだめでしょうか?」

「あ、これはこれは、失礼いたしました」

不動産屋はすぐに元の愛想笑いを取り戻し、カバンから書類を一掴み取り出すと早速契約書を作成し始めた。

 

男は、契約を取り付けた不動産屋がいそいそとマンションから出て行き道端に止めていた営業の車で走り去るところまでを、いまや自室となったマンション2階のリビングの窓からしっかりと見届けた。それからようやく部屋の中に目を戻した。

家具がひとつも入っていない1LDKの部屋はとても広く感じられる。

玄関の右手にあるドアの向こうに、男が格別気に入った浴室がある。トイレが別になっているだけでなく、バスタブの広さはたたみ一枚分は優にあった。

 

ここならゆっくりとシャワーを浴びることができそうだ。

 

もう堪えきれない。
男はリビングのど真ん中で着ていた服を脱ぎ始める。引きちぎらんばかりの勢いだ。
窓にはまだカーテンも取り付けられていなかったが、誰の目も男には気にならないようだ。

そして、服を脱ぎ終えた男は嬉々とした表情を浮かべて浴室に入っていく。
男は湯の温度を42度にあわせてシャワーのカランを回した。勢いよく水が流れ出す。しばらく流し続けると、温度が上がっていった。

男はシャワーヘッドを湯が頭からかかる位置に留めて、鼻歌を歌いながら浴び始めた。鼻歌が浴室にこだまする。

湯が男の身体を濡らしていく。頭から顔から湯が流れ落ち、男は全身で湯の心地良さを感じる。

 

すっかり身体が温まるまでシャワーを浴びた男は、左右の肩をそれぞれの手で掴んでぐいと上に引き上げる。

すると、湯で濡れてふやけた背中がするりと脱げた。脱いだ背中を両手のひらで小さく丸めて床に投げ捨て、男は今度は右手で左腕を掴んで前に引き抜く。左腕が脱げたら次は右腕を引き抜く。

その次は右足、次は左足、脇腹。するりするりと次々に身体を脱いでいく。

全身を脱ぎ終えると、男はもうしばらくシャワーを浴びて身体を温める。十分温まると、また身体を脱ぎ始めた。

何枚も何枚も身体を脱いでいく。足元には脱げた背中や腹や手や足やらがくしゃくしゃになって捨てられている。シャワーがそれらを濡らして、身体はとろとろに溶けていく。

脱げば脱ぐほど男の身体は軽くなり、ついでに意識も軽くなっていく。

 

いつしか浴室にはシャワーの音だけが響いている。

 

 

 

 

 

 

  
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