森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

山猫ノート10 川端康成、村上春樹

「野音」27ページ目。このページの前後だけ使った筆記用具が明らかに違う。

「野音」の大半は黒のボールペンで書いているが、このページの前後だけ文字が少し太い。細字のサインペンを使っているはずだ。

使う筆記用具の書き味が良ければ、すらすらと文章が書ける気がした。文章は頭で書くのじゃなくて筆記用具が書く、とも思っていた。

今だってそうだ。文章は考えて書かないときがある。

パソコンのキーボードを叩く指先が勝手に書いていく。

 

サインペンで書いているのは川端康成だった。川端康成の文章にも憧れた。

まず『雪国』から。あまりにも有名な冒頭の文章。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。

「夜の底が白くなった」、この表現に圧倒される。あっという間に読み手は雪国に連れて行かれる。

 一面の雪の凍りつく音が地の底深く鳴っているような厳しい夜景であった。月はなかった。嘘のように多い星は、見上げていると、虚しい速さで落ちつつあると思われるほど、あざやかに浮き出ていた。星の群が目へ近づいて来るにつれて、空はいよいよ遠く夜の色を深めた。国境の山々はもう重なりも見分けられず、そのかわりそれだけの厚さがありそうないぶした黒で、星空の裾に重みを垂れていた。すべて冴え静まった調和であった。

街明かりはない。人間の存在を拒むような星空だけがある。 

「それでいいのよ。ほんとうに人を好きになれるのは、もう女だけなんですから』と、駒子は少し顔を赤らめてうつ向いた。襟を透かしているので、背から肩へ白い扇を拡げたようだ。その白粉の濃い肉はなんだか悲しく盛り上がって、毛織物じみて見え、また動物じみて見えた。『今の世の中ではね』と、島村は呟いて、その言葉の空々しいのに冷っとした。しかし、駒子は単純に、「いつだってそうよ」そして顔を上げると、ぼんやり言い足した。「あんた、それを知らないの?」

ほんとうに人を好きになれるのが女だけなら、ほんとうに人を憎むことができるのも女だけなのだろうか。

 

もうひとつ、『伊豆の踊子』から。

私の噂らしい。千代子が私の歯並びが悪いことを言ったので、踊子が金歯を持ち出したのだろう。顔の話らしいが、それが苦にもならないし、聞き耳を立てる気にもならない程に、私は親しい気持になっているのだった。暫く低い声が続いてから踊子の言うのが聞こえた。『いい人ね』『それはそう、いい人らしい』『ほんとにいい人ね、いい人はいいね』この物言いは単純で明けっ放しな響きを持っていた。感情の傾きをぽいと幼く投げ出して見せた声だった。私自身にも自分をいい人だと素直に感じることが出来た。晴れ晴れと眼を上げて明るい山々を眺めた。瞼の裏が微かに痛んだ。

言葉を尽くさずとも思いを表すことは十分にできる。素直な言葉を素直な人が口にすれば染み入るように相手の心に届く。

 

そう言えば、ノーベル賞の時季だ。

川端康成が文学賞を受賞したのは1968年、69歳。受賞理由は「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えたため」だった。

ちなみに、村上春樹は今年67歳。2016年のノーベル文学賞の発表は10月13日とみられている。

『海辺のカフカ』から。

「僕らはみんな、いろんな大事なものをうしないつづける」、ベルが鳴りやんだあとで彼は言う。「大事な機会や可能性や、取りかえしのつかない感情。それが生きることのひとつの意味だ。でも僕らの頭の中には、たぶん頭の中だと思うんだけど、そういうものを記憶としてとどめておくための小さな部屋がある。きっとこの図書館の書架みたいな部屋だろう。そして僕らは自分の心の正確なありかを知るために、その部屋のための検索カードをつくりつづけなくてはならない。掃除をしたり、空気を入れ換えたり、花の水をかえたりすることも必要だ。言い換えるなら、君は永遠に君自身の図書館の中で生きていくことになる」

そうか、と山猫は思う。

記憶を留めるために自分は書き続けるのだ。

書くための道具、近年のお気に入りの筆記用具は青色のボールペンだ。

 

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