森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

山猫ノート 9 向田邦子

「野音」26ページ目、死にまつわる言葉を3つ書いている。

 

・死に出あうと大人になる。

刑事コロンボ

 

・もし地球が金でできていたら、人々はひと握りの土のために命を落としただろう。

宝島

 

・自分にとっての最大のお祭りであるのに本人が参加していない、それがお葬式です。

向田邦子

 

向田邦子が亡くなったのは、1981年8月22日。台湾での取材旅行中に、乗っていた飛行機が空中分解するという衝撃的な事故による突然の死だった。享年51歳。

その前年に向田は直木賞を受賞し、脚本家から小説家へのスタートを切ったばかりだった。

山猫が何度か読み返した、お気に入り本のひとつである『父の詫び状』の連載が始まったのが1976年。持っている文春文庫の奥付を見ると、1981年12月25日(第1版)とあるから、この一連のエッセイが文庫化・出版されたのは彼女の死後であった。沢木耕太郎が文庫の解説を書いているが、彼がその原稿を書いているまさにその最中に向田邦子の訃報に接した、と書いてある。

この本によって初めて向田邦子を知り、そのエッセイに憧れた。こんなふうに自在に自分の人生を行き来する文章を書いてみたい、と思った。が、そのときすでに彼女はこの世の人ではなかった。

向田の死後間もない1981年9月に文藝春秋社から出版された『霊長類ヒト科動物図鑑』という単行本があり、この本もやはり向田邦子のエッセイ集であるが、そのなかに「ヒコーキ」と題された小品が収められている。

「スチュワーデスの方に一度本音を伺いたいと思っていることがある。」

という書き出しで始まり、スチュワーデスの方々は離着陸のときこわいと感じないのか、本当はこわいのだけど、お客を不安がらせないためにつとめてにこにこしているのではないですか。と問いただしている。あくまで文章上で。

そして、元戦闘機パイロットの乗客が離陸の直前になって、「急用を思い出した。おろしてくれ」と大暴れし力ずくで飛行機から下りたのだが、その飛行機はエンジントラブルで墜落した、という友人から聞いた話を紹介している。

それ以来、向田邦子は離着陸のときは平静ではいられない、と気味の悪いことを書いている。

そして、自分の母親のことに触れた。

「母は何度か飛行機に乗っているが、飛行機は大好きだという。理由は落ちると、飛行機会社でお葬式をして下さるからだそうだ。」

ちなみに、向田邦子の葬儀で弔辞を読んだのは、向田邦子の親友、竹脇無我で、その竹脇無我が亡くなったのは、向田邦子の死からちょうど30年後の2011年8月21日だった。

弔辞の中で竹脇無我は向田邦子のこんな言葉を紹介している。

「私はいままで夢を見ることの少ないたちであった。夢を見て叶えられない寂しさが恐ろしかったのであろう。臆病であり卑怯であったと思う。夢は見るものだなあと五十を過ぎた今、思っている。叶わぬ夢も多いが、叶う夢もあるのである。」

夢は、まだ、叶い始めたばかりだったのに。

 

f:id:keystoneforest:20161006233008j:plain

 

 

 

 

 

 

 

  
よければtwitterものぞいてみてください。山猫 (@keystoneforest) | Twitter